『オカルティズムと現代』H26年度第7回の報告と次回の開催日程12月21日(日)

『オカルティズムと現代』
  第7回の報告と次回の開催日程について
11月9日(日)14:00~16:30 YCAM2F多目的室にて第7回を開催。
出席者5名(男3・女2)。
自由発言の話題:M資金から裏社会、
すべてが危うい現代にあって(農業やパンづくりを例に)
命がけで生業を営む近隣の方々の話など多岐にわたる。
最後に日本ホメオパシー医学協会「コングレス」に参加された方から、基本レメディ(36種類)の実物ほか関係書籍と併せて回覧を受ける。
以下は、その中で抱いた感想の一つです
今夏の野口裕介さんの死去の話から晴哉の死に関わり、周知の事実と整体師Aさんの見る情景との相違にシュタイナーの霊視を喚起される。
「霊視」という言葉には怪しい響を伴うが、人はただ意識していないだけで、日常的にそれに近い経験をしながら暮らしている。相手の自我の中に瞬時に観入してその人の見ている情景を視る、というA氏の天性はシュタイナーで云うところの「イントゥイツィオン」(霊的合一)に重なる。
それが「イマジネーション」(霊視)として視える方は限られてはいるが、
誰しも対した相手の自我を瞬時に感じ取っており、多くは意識していない。
エーテル体(生命)段階での「霊視」、アストラル体(心)段階での「霊聴」(インスピラチオン)、自我(魂)段階での「霊的合一」は、それを意識している場合の用語とも言える。
自我が観入するのは眼前の人に限られず、時間空間に関わらず死者とも隔てはない。
また、人間以外の事物や生きものの中に入り込んで霊的に合一することも困難ではない。
「実相観入」と称されるが、芭蕉の句の多くはそのようば合一の中から掬い取られた言葉であろう。
ところで、昨今のスピリチュアル一般の危うさは、霊的であるものを唯物論的な視点からしか見ることができないという点にあり、その観点からは自分の唯物論的な視覚さえ意識化できないとい点にある。
霊的な支柱を求めることがそのまま唯物論的霊性という物性の陥穽に囚われることになる。
霊感商法をはじめ、見えるものとして幽霊を求める、物を動かし変じるというサイキック、所謂「心霊」一般がその胡散臭さ故に繁盛するのも唯物論全盛の時代だからであろう。
現代はエジプト文明の甦りの中にあるというシュタイナーの文明期論によれば、霊魂が戻って来るという器・ミイラがその最たる物であろうし、ゾンビに吸血鬼・地球滅亡と不死のヒーローたちをCG画像で娯楽大作に描き続けるハリウッド映画にその兆候を見ることもできようか。
それらを事の是非ではなく、抗えぬ文明論的展開の有様として眺めるならば、「科学」の進展と伴走してきた西洋文明の唯物論を経て、変容したエジプト文明を随所に見て取れる。
問題はそれを意識したところで、現代の日本にあってどのように自分を位置づけ自分をどうするかである。
【文責:学級委員 岡田隆】
次回の開催日程
第8回 12月21日(日)14:00~16:00 YCAM2F多目的室
  テキスト『シュタイナーの死者の書』(ちくま学芸文庫)
  第二部 第三講