現代アート考 第3回 令和元年9月13日(金)19:00~20:30

現代アート考 第3回
令和元年9月13日(金)19:00~20:30
第3回 入門編3 文化多元主義と芸術祭の時代
会 場 山口情報芸術センター(YCAM)2F多目的室

参加人数 9名

■講座内容
現代アート考【入門編】の第3回目でまとめの回。冒頭で、第1回目のモダニズム=西洋における19-20世紀美術のマスター・ナラティヴ、第2回目の日本における現代美術史の困難さを振り返った。次に「正史」、「通史」の原義を確認して、世界的にもポスト・モダン思潮の浸透とともに、そうした歴史叙述が困難であることを確認。文化多元主義と多文化主義を比較して、前者が多様な文化の共存モデル、後者は社会におけるマイノリティを対等に扱うための政策を指すことを解説した。国際美術展・芸術祭は、1990年代から世界各地、日本国内でもさまざまな地域で新設されるが、1980年代から2000年代にかけて、文化多元主義が企画テーマや、芸術監督、キュレーターの関心として注目されるようになった。こうした動向は、大きな物語が失効した後の、地域独自の文化・歴史の掘り起こしと軌を一にしていると考えられる。

■参加者からの感想や、科目実施を通して学んだこと
第1講、第2講で学んだいまや西洋現代美術史の正史 Master Narrativeとなり得たモダニズム美術からその批判を受け失効したポスト・モダニズム時代における西洋現代美術、それに対して日本現代美術史、なかでも椹木野衣氏の『日本・現代・美術』で議論されていた「悪い場所」としてのガラパゴス的日本現代美術から伺えるのは、日本は外圧として受けた、テイクオフなきモダニズムから、ポスト・トゥルースとも受け止められかねない伝統への回帰を伴った、解体なき悪しきポストモダンの時代にいままさに我々は投げ込まれている。続いてリオタールの『ポスト・モダンの条件』テクストの概要、つまり「大きな物語の解体」は白き象牙の塔つまり権威化したモダニズム学問や大学のあり方をいったん解体し、歴史観においてもフランス・アナール学派の様に権力側の正史でなく小宇宙・あるいは多島海(アーキペラゴ)としてのミクロヒストリーへの転換へ継承され、ここから文化多元主義へのまなざしが生まれる事を学んだ。しかし、美学者・吉岡洋氏が彼の翻訳書『反・美学:ポスト・モダンの諸相』のあとがきでいみじくも述べられていた通り、知の歴史風土が異なる日本にこの理論を適用するのは、「実利を目的化した学問」のみの崇拝を産み、その根底に流れる歴史や思想を忘却する反・知性主義やポスト・トゥルース思想につながる危険性を伴うと思われた。
後半は、1995年に100周年を迎えたヴェネツィア・ビエンナーレ及び1955年に端を発したドイツのドクメンタに代表される国際芸術祭、日本でも戦後1952年にはじまった日本国際芸術展・東京ビエンナーレ(地元山口県宇部市にも巡回された記憶がかすかにあります)、それに1961年宇部野外彫刻展に端を発し1965から現在のUBEビエンナーレに至る現代彫刻展が、日本の国際芸術祭の始まりで、双方とも90年代以降は多文化主義、西洋美術史から世界美術史への転換を具現化するように変貌しつつある一方、いわゆるグローバル化の波に飲み込まれる様に、同一のキュレーター、画一化された展示内容からビエンナリゼーションなる言葉も生まれている。一方、日本では地域おこしと結びつき、ローカリゼーションとしての芸術祭が興隆してきたが、藤田直哉氏は地域アートから「前衛」や包括性、それに生政治性が消滅しサイトスペシフィックに走るあまりキッチュな個人的なものになり、またアート・プロジュクトに含まれる暴力性の問題も含め『地域アート』のなかで批判している事にも触れられ、、むしろニコラ・ブリオーの関係性の美学やクレア・ビショップの『人工地獄』にも論じられている、芸術祭と観者、さらに参画型アートのあり方にも今後議論を深める必要性が大きいと感じ取られた。
続いて、90年代から現在までの代表的な国際芸術祭のケーススタディについて紹介された。ここでは個人的にYCAMでもお世話になった下道基之氏の記憶と境界を巡る作品群が目を引いた。本来、個人的経験に立脚する記憶や境界の概念だが、これをいみじくも見事なまでに共有体験として捉えられる作品だと感じられた。
ここから講義の最後に紹介された、マイケル・フリード『芸術と客体性』は以前私も大学の特殊講義で講読、のちにこの論文が含まれている『モダニズムのハードコア』も入手し愛読している論文ですが、作品の価値判断・傑作の要件は過去の揺るぎない作品との比較に耐えうる確信がすべてを決め、それは限りなく短い一瞬で十分だという即時性として経験するという一説は、同時に紹介されたグリーンバーグの「一瞬のうちに美術史の交響的な響きがフラッシュバックする」という言葉もあわせ、個人的な価値判断から共有された疑いなき美的経験への昇華であることを学ばせていただいた。